最後のお分かれ
最後の
お礼
葬儀は
葬儀とは
仏様には、それぞれの浄土があります。お釈迦さまは、自らの真意を語られた「法華経 如来壽量品(にょらいじゅりょうほん)」に
『常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)して法(ほう)を説(と)く 我(われ)常(つね)に此(ここ)に住(じゅう)すれども 諸(もろもろ)の神通力(じんつうりき)を以て 顛倒(てんどう)の衆生(しゅじょう)をして 近(ちか)しと雖(いえど)も而(しか)も見(み)ざらしむ』と、説かれています。
解説
お釈迦さまは、常に私たちの近くで教え導いてくださいますが、さまざまな神通力を使い、心が乱れ正しい判断ができない私たちには、ほんとに近くにお釈迦さまはいてくださるのに、見えなくしている。
お釈迦様の浄土は、この世と寸分変わらない世界ですが、心の乱れた私たちからは見えない世界になっています。このお釈迦様の浄土を『霊山浄土(じょうぜんじょうど)』と、いいます。
この『霊山浄土』に故人を送る式が葬儀式になります。
『霊山浄土』はこの世でありながら目に見えない仏様の世界ですから、近所に買い物に行くようには訪れることができません。行くにはそれなりの準備と祈りが必要になります。
霊山浄土に赴(おもむ)く準備と祈りが『葬儀式』になります。
死は誰にでも平等におとずれます。
生きてきた ありのまま の姿と会えるのは今だけです。
感謝を伝える祈り
別れを惜しむ祈り
みなさんの祈りを集め届けるのが、僧侶です。
最後の祈りを故人におとどけします
葬儀式のながれ
導師 寺町一乗山 法華寺 三十一世 圓心院日見
先、入堂(にゅうどう)
○導師(どうし)が葬儀の場に入場(にゅうじょう)します。
次、声明(しょうみょう)
○旋律(せんりつ)の付いたお経を唱え、道場(どうじょう)を荘厳(しょうごん)する。
次、勧請(かんじょう)
○釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)・諸尊(しょそん)の来迎(らいごう)を願(ねが)う。
次、開経偈(かいきょうげ)
○読経(どきょう)のための心を整(ととの)える。
次、読経(どきょう)
○読経(どきょう)し功徳(くどく)を故人に捧(ささげる)げる。
次、開棺(かいかん)
○棺(ひつぎ)を三打(さんだ)し霊位(れいい)に引導(いんどう)あるを告(つ)げる。
次、行状文(ぎょうじょうぶん)
○生前(せいぜん)の徳行(とくぎょう)を釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)に報告する。
次、引導文(いんどうもん)
○行状文(ぎょうじょうぶん)に続(つづ)き法号(ほうごう)(戒名(かいみょう))を授(さず)け、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に導く。
次、読経(どきょう)
○釈迦牟尼仏の本意、久遠(くおん)の安心(あんじん)を説(と)く「妙法蓮華経如来壽量品(みょうほうれんげきょう にょらいじゅりょう
ほん)」を唱え霊山浄土への往詣(おうけい)を示すとともに、読経の功徳を積む。
次、唱題(しょうだい)
○「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の御題目(おだいもく)を参列者皆とともに唱(とな)え・焼香(しょうこう)し、功徳
(くどく)の善行(ぜんぎょう)を積(つ)む
次、回向(えこう)
○読経・唱題・焼香の功徳(くどく)を全(すべ)て霊位(れいい)に捧げ霊山浄土への往詣(おうけい)の道を示し導(みちび)く。
次、声明(しょうみょう)
○釈迦牟尼仏(しゃかむににぶつ)・諸尊(しょそん)の帰還(きかん)を告(つ)げる。
結、退堂(たいどう)
○導師が退堂す
行状文とは
ぎょうじょうぶん
行状文は、日蓮宗独自の儀式になります。
生まれた場所や、性格・仕事・生き様などを仏様に報告する文章になります。
司会者のナレーションでも流れることもありますが、ナレーションは参列者に聞いてもらうものですが、行状文は参列者にも聞いてもらいますが、メインは仏様に聞いていただく文章になります。
寺町 法華寺では、古文調の文体を取りますが参列者にもわかる文章を心がけています。
人生は人それぞれ違いますので、行状文も1つ1つ違い同じものは1つもありません。
つらつら、状を案ずるに、霊位は父 山田 太郎、母 華子の子として、昭和十年八月三十一日、今治にて生を受け、父母の慈しみの元に長ず。良縁にまぐめれ、喜久子女と華燭の典を挙げ、一男を授かる。武史なり。
天質(てんしつ)、謹厳実直。その胸中に剛毅の玉を蔵すに、柔軟の衣を持ってす。人に接(せ)するに温容(おんよう)を忘れる事なく、心暖(こころあたた)かく人のために心を砕く。自ら是非を判ずれば迷うことなし。
学業を修め、教師を志(こころざし)、教鞭をとること三十八年。この間に教え子はゆうに千人を超え、その一人一人を訓育す。霊位の教育に対する清廉(せいれん)なる態度と、たゆまぬ努力は万人の認めるとことなり、推挙(すいきょ)を受け、試験に合格し、教頭・校長と重責を歴任。〇〇小学校の校長を最後に惜しまれつつ勇退(ゆうたい)す。
霊位、風流(ふうりゅう)雅境(がきょう)を知らずといえど、その趣味多彩にして、盆栽は一家言あり黒松・五葉松を数年、また十年の歳月をかけ枝ぶりを整える。カメラを持っては風景や花の写真を撮り、近所の浜に出かけては釣り糸をたらししばし太公望となる。
家庭にあっては、厳しい父として子供たちに接する。しかし「子供部屋、作るぞ」と、言っては、瞬く間に子供部屋増築し、「ラーメンを食べるか」と問うては、麺を打ち、出汁(だし)をとりスープを作り会心のできを家族に振る舞う。
日々穏やかに過ぎ行くかと思えど、好事魔多し。家の前の道を横断中、何ほどの咎(とが)なき霊位を、前方不注意の車、霊位を跳ねる。後頭部を強打。即死と思われしが、「今しばらく家族とありたい」との霊位の願いか、奇跡的に命を留める。以後、四肢自由を奪われ、言葉を交わすこと能わず。愛妻の喜久子女の献身的な介護と武史・百合子夫妻の孝養と励ましを受け、日々を送る。
日は時と共に去り、四季の移ろい待つことなし。頭に雪を頂き、歯根ゆるむ。本年八月毎年と同じく御回向にうかがうと、常に変わらずベットの上で沙門それがしを迎えられる。しかし今年の夏の暑さが体を蝕み。再び入院。さらなる寿命を願いしが、命算限りあるおや、嗚呼ために算を改めず。寿を賀するの道なく。天なるかな、命なるかな、秋の風に誘われ、突然にその訃を発し、静かに目を閉じ終わんぬ。
本年九月二十八日 午前六時四十六分 世寿八十七歳なり