自粛警察に思う正義と正しさ

前回の〈時たま〉で書いた、「得ざらんと欲せばまず与えよ」で書いた、安心を与える大切さは、自分の内側からでる慈悲心であり、他者から強要されるものでは決してない。


慈悲心の発露は、巡り巡って自らに帰るし、利己心も巡り巡って自らに帰ってくる。パチンコ屋さんがやり玉にあがり非難の対象となっているが、3密を基準にすれば営業自粛も仕方なしとの感もいなめない。


しかし、今の世の中では営業中自体を非難する傾向にあり「自粛警察」なる各店舗に自粛を強要する人がいる。


自粛要請は今現在では最大の「正義」であろう、しかし、完全な「正しさ」ではない。

「正義」は正しいことだが、強要すれば反対に害悪となりえる。

自らの「正しさ」を振りかざす者のなんとも滑稽なっことか、「正しさ」「正義」は共有されるものであり、強要し従わせるものでは決しない。


3密にならないように気を付け、感染のリスクを減らし営業を続ける飲食店やその他の業種に対して自らの「正義」だけで自粛を強要することは「正しい」行いではないだろう。


「正しい行い」は、その時その環境によって変わってくるのだから、一律ということはない。鎌倉時代の日蓮聖人という方は、「戒律」(かいりつ)に対して批判をされた。「戒律」とは、守るべき規範や規則であり、守ろうとする心であるが、「規範や規則を守っていればよい」と、何のために守るのかという目的より、守ればいいという手段の方が優先され、その場その環境で、優先される目的を見失ってしまう傾向にあることを日蓮聖人は批判されたのだと私は考える


法華経の結びのお経である『仏説観普賢菩薩行法経』には

一切の業障海(ごっしょうかい)は。皆妄想(みな もうぞう)より生(しょう)ず。若(もし)し懺悔(さんげ)せんと欲(ほ)せば。端坐(たんざ)して実相(じっそう)を思(おも)え。

意味は

「すべての苦しみの根源は、自らの考えの間違いから生まれる。もし、この苦しみを取り除

 こうと思うならば、心を落ち着け、目の前にある事柄を正しく見なさい」


自らの恐怖に目を濁らせれば、物事を正しく認識することはできない、心を落ち着け物事を正しく見てほしい。


自粛警察の方々は、自粛という目的にのみに目を向け、新型コロナウイルスによって命を落とす人を作らないという目的を忘れているのではないだろうか。


何事にもリスクは生じる、自粛強要の張り紙を張りに行くにも家の外に出なければならない、そこには感染のリスクがある。


状況に応じて「正しさ」は変化する、1分前と今とでも違いが出るだろう。

私自身もこのことを心にもう一度とどめ、「実相」を思う心を養いたいと思う。


願うならば、自らもふくめ業障海を離れ、実相を思い。少しでも多くの人が苦しみから離れることができますよう。








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